得体の知れない閉塞感

先日、ほぼ一年ぶりに日本へ行った。およそ二週間の滞在だった。それにしても、何とも言い難い閉塞感のような空気が漂っているのだろう。街を歩く人が、果たしてハッピーなんだろうかとつい考えてしまうほど、「空気」がどんよりしていた。暑さのせいもあるかもしれないが、仮にそれを差し引いたとしても、ちょっと異常なように私には思えた。慣れてしまえば、どーってことないものなのかもしれないが、慣れてしまうのが怖いと思わせるような、どんよりした空間だった。

いったい、なぜだろう?

私の考えでは、一言で言えば「無理をしている」「無理を強いられる」からだろう。その「無理」を感じるときを、以下にまとめた。

1. 「忘れ去られた国ニッポン」を直視しない: 世界の人々の目はどう頑張っても中国に向いている。現実に、ヨーロッパに住む私には、日本はアジアの辺境の忘れ去られた島国、と人々が受け取っているように思われる。日本でも皆うすうす気づいているのだろうが、それを認めようとしない。どうにも無理をして見て見ぬふりや忘れたふりをしているように思われる。

2. 消費させようとする各種のものがあふれすぎ: 街を歩いていれば大音量でお店から流れてくる音楽、あちこちの宣伝看板。なんだか物やサービスを無理してまで消費させられている気がする。音や看板は嫌でも耳や目に入ってくるから、非常にたちが悪く、疲れる。

3. 街中の情報過多: 上と関連するが、街を歩いていれば、広告・宣伝や注意書きの情報がやたらあふれている。これらは黙っていても目に入ってくる。平静に保とうとしても無理だ。音・文字の情報の流れに対して、我慢を強いられる。ちなみに、ロンドンなどでは似たようなことを感じる。(余談だが、各所の駅で「このホームは傾斜があります。ベビーカーは線路と平行に停めて下さい。」と書いてあるのを見たが、どこかの鉄道会社が裁判で訴えられて損害賠償でも払うことになったんだろうか?)

話しがちょっとだけそれそうだ。元に戻そう。

4. みな貧乏になりはじめている: 私と同世代には非正規雇用が多い。こういうケースでは、むろん仕事としては不安定だし、食べていくのにやっとだったりするケースが多い。日本全体でも、一人あたりGDPはすでに23位(IMF 2010年データ)だ。既にシンガポールや香港の後塵を拝し、アイルランドやアイスランドやオーストラリアやオーストリア以下だ。1990年代は2位とか3位とかだったのにね。台湾とほぼ同レベルで、ギリシャなどと近いレベル。

5. 日本企業の限界: 東大などのトップクラスの大学の学生は、できれば日本企業では働きたくないと思っている人が実は結構いるようだ。もっとも、チョイスがないので「やむを得ず」日本企業で働く人も多いように見える。が、優秀な学生ほど外資系企業や小さなベンチャー就職しているように思われる。日本企業には人材が集まっていない。あるガチガチの日本企業に就職して地方配属になった後輩は、すでに入社4ヶ月目にして「国連で働くにはどうしたらいいか調べ」たりしたそうだ。日本企業にはすでに人材が集まらなくなっていると可能性がある。(その原因のあたりは稿を改めて書きたいと思っている。)

6. かといって、大方の場合、日本から出ようとすると『日本を降りる若者たち』の世界になる: 非正期雇用で日本で1年のうち2ヶ月くらい働いて、あとは物価の安い国で「外ごもり」生活をするくらいしかない。日本から出て、その先の社会で活躍するにも、大方は語学力だの文化・制度の違いその他の諸問題があるから、簡単には出られない。結局、日本のなかでどうにかするしかない人たちが多い。が、その日本は先行き不透明、このまま行けば日本全体は貧乏になる。若い世代にとっては、将来、親の世代のような「良い暮らし」をするには無理がある。(余談だが、旅先で「外ごもり」をする日本の同世代から1回りくらい上の人たちにはずいぶん出会った気がする。)

7. なのに、団塊の世代は実は美味しい思いをしている: 「逃げ切った」格好の団塊の世代は、海外旅行三昧だったりする人たちが多い。なのに若い世代にはお金がない。お金がないから、結婚したり子供生んだりなんてとても無理、という人が実は結構いる。

8. マスメディアが役立たず: 私が話した人が異口同音に「テレビや新聞は『煽り』の要素しかない」という。大手のテレビや新聞はジャーナリズムとしてはもはや死に体。結果、まともな情報源がないから、議論することも自分のアタマで何か考えることも無理。日本関連記事ですら外国メディアの方が物事をより詳しく掘り下げて報じていることが常態化している始末。

9. 未来志向で東アジアを見られない: 対米追従志向(思考)の人が多すぎて支配的なせいだろうが、アジア各国とこの先どうやっていくか、議論すら無理な風潮。現実的には、近隣とうまくつきあっていくしかないはずなのに、何かあると上に書いたようにマスメディアが対立を煽る。

10. 地方は外部との接触を失っている: 東京はさておいても、地方部は外の世界(その地方以外の世界、日本より外の世界)との接触がほとんどない。唯一の窓口はイオン・ジャスコにある輸入食品という始末。外の世界を除くなんて、マスメディアが伝える断片情報以外、無理。

11. 感情論が先行、「恨み」が蔓延: 何かあるとすぐ「恨み」や感情ばかり強調される。感情論が先行したら、、理性的な話など無理。落ち着いて冷静に物事を考えねばならない場面ですら、感情論が先行する。感情論・恨みが人を裁いているようにすら見えるケースもある。

どうにも「どんよりした空気」や「得体の知れない閉塞感」を滞在中に感じたので、「無理」をキーワードとしてその原因に近づけないかと考えてみて、上記のように書き出してみた。書き出してはみたが、どうも雑多なアイディアの羅列になってしまった感が否めない。こういう風に書き続けていると、冗談か本気かわからないが、「じゃあ日本国籍やめれば」とまで言われてしまい、更に居心地の悪さが増す、という具合なのも事実だ。

「無理」という単語を繰り返しつかったが、日本には「ごくごく普通のことなのに、 自然体でやろうとすると無理で、何らか無理をしないとまともなことすら実現できない」ことが多いのではないか、という考えがその発端にある。日本の暗い話しばかりで、書いている自分も暗い気分になってきた。とりあえずこの辺で筆をいったん置くことにしよう。

『ガラパゴス化する日本』

長いことブログを記していなかった。この1ヶ月半ほどの間に、イスタンブールへ行き、リスボンへ飛び、はたまた日本へ飛び、さらに韓国にも寄り道した。本来なら今日はモスクワにいる予定であったが、このところの森林火災とそれによるスモッグの影響が不透明なので、この予定はキャンセルして後日改めることにしたところだ。

さて、『ガラパゴス化する日本』(吉川尚宏著、講談社現代新書、2010年)とは刺激的なタイトルである。「ガラパゴス化」とは私も時々自分の専門分野で使うことがあるが、要するに世界の他所と隔絶された孤島で独自に進化を遂げてしまった状態であり、この本の場合は日本国全体がそうであるとしている。

本書に出てくる実例はまずまず面白いし、へえとうなずくこともある。ところが、最後の章がちょっとお粗末だ。ここに出てくる、「脱ガラパゴス化」のための、2つのシナリオとは、「霞ヶ関商社化」と「出島を作る」ことだそうである。霞ヶ関商社化とは要するに「国の制度や仕組みを海外と互換性のあるものにする」ことだそうで、「出島を作る」というのは、どこかの都市を、日本語以外に英語と中国語が準公用語で、解雇規制も含めた規制の撤廃され、空港などインフラが整い、世界最先端の研究期間があり、法人税などが低く企業運営コストが低く抑えられた場所を作れば、そこが「活性化」し、ガラパゴス化打破の糸口となる、というのが主張だ。最後に、労働者の再教育機関設置などの人材への投資を謳っている。

前者は、制度に互換性があるようにし、さらにルール作りを先に制した物が得をするということで、制度ごと輸出もできるものを作るということを提言している。問題は、この手のことはEUなどが先んじて既に行っていることである。どの程度インパクトがあるのか、不明なところも多い。日本国内には制度変更による各種コスト負担を強い、外国企業は非関税障壁が減って美味しい思いをする、なんていうだけの結果にもなりかねない。

後者は、要するに教育水準の高い外国人を日本国内の一カ所に集めて入れて、それを梃子に活性化しようということであろう。確かに「ガラパゴス化」は脱出できるのかもしれない。が、この「出島シナリオ」というのは、ざっくり言えば、要するに、安上がりにビジネスをできる場所をどこかに作ったら、日本は再び活性化する糸口を掴める、というようなものである。

そもそも、企業が低コストで事業ができ、人材に流動性があり、教育水準が高く、先端的研究機関があり、諸外国の言語が通じれば、イノベーションが起き、さらに日本全体に波及効果が生まれる、というのは、どうにも虫が良すぎないだろうか。本質的な所では「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理であると私には思われる。期待した通りの結果が生まれてくるとは考えにくいし、さらに他国の動きいかんでは正反対の結果にもなりうる。たとえば、この「出島」類のものを近隣の国に作られたら、瞬く間に人材から企業立地までそちらに吸い取られる可能性が高い。要するにただの安売り競争を自ら仕掛ける(そして仕掛け返される)ことになるだけかもしれない。

そもそも、世界にはわざわざ日本で働きたいと思う人はそう多くはない。「日本で働く」ことから連想するのは、少ない休暇、長時間労働、通勤地獄、「体育会系的」上下関係、、、、といったもので、まったく、魅力に乏しい。もっとはっきり言えば、いいことは一つもないといってもいい。おまけに、日本といえば、地震や台風といった天災を連想する。こんな具合だから、上記のような「出島的」特区を作ったって、おそらく人は集まらないだろう。

そういうことを考えていくと、この「脱ガラパゴス化の提案」に希望を持つのは、あまりに楽観的と言わざるを得ないだろう。

というわけで、本のタイトルとしてはセンセーショナル、だけで終わりそうな本だ。